座右のニーチェ

 

本書は、タイトルの通り、著者が自身の座右の銘としている格言(アフォリズム)を、「ツァラトゥストラかく語りき」を中心にニーチェの著作の中から抜き出し、その背景、意味、そして、著者の解釈を述べた本である。

 

座右のニーチェ (光文社新書)

座右のニーチェ (光文社新書)

 

私は、ニーチェという人物が何物で、何を成し遂げた人物か、よく知らない。私の人生において、ニーチェという単語に触れ、かつ記憶に残っている機会は、振り返ってみても三度しかない。 

 

 

一度目は、前田日明という格闘家のパーソナリティが語られるとき、大阪の路上でストリートファイトを繰り返し、プロレスラーとして活躍し、苦悩し、そしてインタビューにおいてはニーチェを語る、というエピソードを通じてであった。

 

二度目は、大学の英詩の教授を通じてである。私の通った英米学科には、三年次に上がるための登竜門となる、厳しい指導で有名な英米詩の講義があった。講義中、教授の叱責や怒声が飛び交うことも珍しくない、ゆるい文系とは思えぬ講義であった。その講義において、教授の口から事ある毎に語られたのが、「ニーチェは、〜」というセリフであった。ジョン・キーツ、エミリー・ディッキンソン、エズラ・パウンドT・S・エリオット、ロバート・フロスト等、講義で題材とした詩人は数多くいたが、その詩の内容は1つたりとも憶えていない。また、教授がニーチェのことばを引用し、説明してくれた内容すら全く憶えていない。ただ、教授の「ニーチェは、〜」というセリフだけが、強烈に印象に残っている。

 

三度目は、著者と梅田望夫さんの「私塾のすすめ」を通じてだ。著者は、自身のロールモデルとして、ドストエフスキーと並び、ニーチェのすばらしさを嬉々として語っており、これがきっかけとなり、私は本書を購入したのだ。
ただ、読んではみたものの、正直あまりピンとはこなかった。なんだか、本書の「読書する怠け者」で引用された、以下のことばが痛かった。 
※孫引きですすいません・・。

 

いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する。・・・・ 血と寸鉄の言で書く者は、読まれることを欲しない。そらんじられることを欲する。 (六十ページ)

 

「読んだ一冊から何かを引用してみてくれというと、ほとんどの人は一行もそらんじることができない」とあり、耳が痛かった。 今はピンとこなかったが、原作を読むと、もしかすると何か思うところがあるかもしれない。また、今はピンとこなくとも、5年後10年後に、ふと「ああ、そういうことだったのか」と思い返すこともあるかもしれない。

 

というわけで、「ツァラトゥストラかく語りき」は、わたしの読書キューの末尾に加わることとなった。